砂子塾長の熱血ドラテク持論 第83回(WEB版 第1回)「銀座上空に空冷ポルシェの群れ『LUFT TOKYO』にナインテンポルシェ993RSRと参加してきた」

砂子塾長の熱血ドラテク持論 第83回(WEB版 第1回)

 

銀座上空に空冷ポルシェの群れ『LUFT TOKYO』に

ナインテンポルシェ993RSRと参加してきた

 

 

高性能シミュレーターによるトレーニングルーム『東京バーチャルサーキット』や富士スピードウェイP2/P7でのアンダーステア・オーバーステア克服トレーニング、各サーキットでのマンツーマンレッスンなどを行う『砂子塾』など、数多くのドライバーにレクチャーを施している砂子塾長の連載コラム。WEB版での第1回目は銀座と『LUFT TOKYO』がテーマ。

 

 

「今夜はザギンでシース~!」古!

「えっ?同伴? そうなんよ、金掛かっちゃってしゃーないんよ」(笑)

買い物客で賑わい、富裕層がひしめき、ハイブランドの店舗に入る綺麗なおねぇさまたち。夜のネオン、接待に、タクシー待ち……

銀座といえば、何を想像する?

 

そして、いつから銀座はそんな街になっていったのか?

江戸時代の銀座は職人の街だったそうだ。幕府ご用達の日用品、武具などを製作する町工場だらけだったという。また、徳川家康が銀貨鋳造所を駿府から移設したことに始まり、銀貨の製造管理を行う『銀座役所』が置かれたことが「銀座」の地名の由来だそうだ。

 

 ちなみに、北から1丁目が始まり、地図上の下(南)に向かうにつれ、2.3.4丁目と区画されている。単純に皇居、江戸城に近い順となったそうだ。

 銀座2丁目。このあたりには、明治時代に100を超える数の新聞社があったそうで、その印刷のために活版屋がひしめいていたんだとか。新聞1面あたり1万2000字を手作業で活字配置するなんて、気が遠くなる作業が日々行われていたわけだ。

 

 現在、活版屋は『中村活字』という活版屋が1軒のみ存在していて、名刺のみらしいが、多くの政財界からのオーダーがあるという。

 もとは東京都庁も有楽町駅の目の前にあり、行政の中心をも担っていた銀座。1962年3月に公開された石原裕次郎と浅岡ルリ子主演の映画『銀座の恋の物語』は和製恋愛映画の古典作品なのだが、ここに描かれたご存じ『並木通り』は、なんと、調布の日活撮影所につくられた巨大オープンセットらしい。まだ、大きなビルが少なかった当時だからこそ、セットで再現できたのであろう。

 

 銀座3丁目。このエリアはまさに巨大デパートエリアである。松屋銀座は1924年(大正13年)に開業。前年に関東大震災に見舞われた東京。多くの被害から復興のシンボルとして、次々に大型デパートが立ち並んでいく。1925年には松坂屋銀座が開業。『全館土足入場』が日本初なのだと! 「それまで靴脱いでたんかい!」(笑)。また、その後のエレベーター式のパーキングビルや制服の完全洋装化も『日本初」の出来事だらけなのだと。

 

当時のデパートといえば、屋上に動物園やミニ遊園地を配置。多くの子供たちを退屈なお母さんの買い物のおつき合いから解放した(笑)。

 

さて、これまた有名な銀座『中央通り』には、かつて都電銀座線が走っていた。日露戦争前年の1903年(明治36年)に開業。東京馬車鉄道をルーツに持ち、全長3.7km、新橋から須田町までの区間で、中央通り上に敷設されていたんだとか。当時は1日平均193万人が利用していたが、1967年12月9日に、その愛された『チンチン電車』の歴史は高度経済成長の急速なクルマ台数増加により廃線となるのだ。その路面電車で使用していた敷石は現在、中央通りの歩道に使われているのだと。今度、探してみよう。

 

そして、その下を走るのが1927年開通、アジア初の地下鉄『銀座線』である。現代では巨大なシールドマシンを使って穴を掘っていくのが常識だが、何の機械も持たない当時は人力で土を掘削する開削工法で建設されたのだ。穴を人力で堀り、その土をトロッコで隅田川の桟橋などに運んだ……。気が遠くなる……。人って凄い……のだ。そんなわけで、銀座線は地上からわずか16m下に存在し、現代の大江戸線は49mもの地中を通る。

 

 3丁目ネタはまだまだある。1874年(明治7年)にガス灯85基が設置(東京初)された『ガス灯通り』。ろうそくの1.5倍明るく、『点消方』という職業が存在したのだと。夕方や朝に火種のついた棒を持ち、点消作業をしていたそうだ。明るくなった銀座に『文明開化』と『未来』を人々はドキマギしながら感じていたことであろう。

 

 銀座4丁目。有名な時計。そう『SEIKO HOUSE』だ。1894年(明治27年)服部時計店が誕生し、建築された銀座の顔。関東大震災の教訓から頑丈な天然石を多く使用しているという。戦時中は銀座大空襲を受けながら奇跡的に壊滅せずに残り、戦後の1947年(昭和22年)に平和を祈り『和光』と改名。ちなみに、あの時計は一般的には道路側からしか見えないが、正確には東西南北4面に4つの時計があるそうだ。

 

 昭和7年。銀座4丁目交差点にオープンした『カフェライオン』。文字どおり、現在の『銀座ライオン』の前身である。カフェの発祥と広がりは銀座から。当時、女性の給仕さんが接客をしていたことが現在の夜の銀座文化の始まりとされている。日本の文化、習慣、生活、価値観を大きく変化させてきた銀座。そして数々の『初』を誕生させてきた銀座。そこに新たなページが加わった。

 

 

3月14日の『LUFT TOKYO』だ。銀座上空、廃線となった首都高KK線の上に200台を超える数の空冷ポルシェが並んだのだ。1日限りの貴重なカーショー。銀座1丁目の首都高KK線西銀座入口から上に上ると圧巻の景色が広がっていた。

 

 

グループCカーとして活躍した956や962C。その後ろには1998年の全日本GT選手権で俺が燃えて、その後につくった993RSR(フルレストアが施され、2年前に富士スピードウェイでシェイクダウンを行った車両)。そして『スカイライン伝説』となった1964年の日本GPを走った904。1968年の日本GPで生沢徹さんが乗った910(カレラ10)……。そのほかもポルシェファンならずとも美しさに惚れ惚れする古き良き空冷ポルシェたち。周りを見渡せば、ビル、ビル、ビル。都会、銀座の上空に夢のような空間ができ上がっていた。

 

 

 

 

 

 

企画運営は高田プロダクション。あの『箱根ヒルクライム』をやった高田興平くんだ。

 

当日の朝は寒気の影響が残り、北風も強かったのだが、イベントが始まる10時くらいには太陽が容赦なく照りつけ、3月とは思えない陽気となった。会場には1万人を超える人々が訪れ、この空間を楽しんだ。

 

 しかし、この日、晴れるなんて誰にもわからない。トイレもない、休憩場所もない。ただただ鎮座する空冷ポルシェ。どれだけの人が来場してくれるかもわからない、このギャンブルを見事に大成功させたのだ。

 

 このイベントの凄みは何だろう。そんなにも人が来るなんて! 凄過ぎる……。高田くんには「おめでとう!」と現場で伝えることができた。

 

人が考えもしないこと。「それ、無理じゃない?」「いや、できるかも」そんな発想や気持ちが成功へと導いた。首都高の上から見下ろす銀座はいままでにないエモーショナルなものだった。日本初なんて出来事の裏にはさまざまな想いや努力がある。

 

あ、銀座5、6、7丁目にまだ触れてなかった(笑)。本来の銀座は4丁目までで、昭和5年の区画整理によって、尾張町が5丁目に、竹川町が6丁目へと追加されたのだと……。

 

 原稿も書き終わり、腹が減ってきたな……。そうだ、銀座3丁目のガス灯通り沿いにある『煉瓦亭』にでも昼飯を食いにいこう! 日本初の洋食屋で、明治28年創業。オムライスの発祥地である。

 

『TV火曜の良純孝太郎』参照

 

 

■東京バーチャルサーキット 東京都品川区西五反田5-4-6セブンスターマンション西五反田402号 TEL 03-5962-7574  https://sunakojukuchou.com/

 

 






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